ログイン私が二度目の命令を口にしても、棺の周りに立つ葬儀社の職員たちは、誰一人として動こうとしなかった。
無理もないのかもしれない。つい先ほどまで、ここで行われていたのは、久瀬グループの次期会長を送り出すための、あまりにも整いすぎた葬儀だった。祭壇を飾る花の種類も、弔辞を読む人間の順番も、報道陣へ公開する映像の長ささえも、久瀬家の広報部と顧問弁護士が細かく決めていたのだろう。そこへ、死者の兄を名乗る追放者が現れ、棺の中から死者の携帯電話が鳴り、挙げ句に喪主が棺を開けろと言い出したのだから、職員たちが、自分たちの判断で触れてよいものなのかと青ざめるのも当然だった。
けれど、今の私には、彼らの立場を思いやって待つだけの余裕がなかった。
「聞こえなかったのなら、もう一度言います。棺を開けて、中で鳴っている携帯電話を取り出してください。私が冬真の妻で、今日の喪主であることに、異論のある方はいませんよね」
年配の葬儀責任者が、助けを求めるように高遠へ目を向けた。
「奥様、棺はまだ完全には閉じておりませんので、物理的には開けられます。ただ、ご遺体の状態を考えますと、ご対面はお控えになったほうがよろしいかと存じますし、納棺後に私どもの判断だけで開けることも――」
「あなた方の判断ではありません。私が責任を取ります」
「澪さん、責任という言葉で片づけられる問題ではないんです」
高遠は声を荒らげず、それでも私と棺の間から退こうとはしなかった。
「中にある携帯電話が冬真さんの物なら、なおさら素手で触れてはいけません。誰が、いつ、どのような目的で入れたのか、今の段階では何もわからないのですから、まず警察へ連絡し、鑑識の到着を待つべきです。あなたが取り乱すのは当然ですが、ここで急いで証拠を壊してしまえば、あとでいちばん後悔するのはあなたですよ」
言われていること自体は正しかった。だからこそ、私は、彼がどうして火葬を止めるという同じ結論を、先ほどまで一度も口にしなかったのかが気になった。
「では、高遠さんから警察へ連絡してください。火葬は中止し、誰もこの礼拝堂から出さないようにお願いします」
「誰も、というのは、参列者全員を疑うという意味ですか」
「夫の携帯電話を棺へ入れた人が、この中にいるかもしれないのでしょう。久瀬家の体面を守るためなら、誰か一人を見逃しても構わないとおっしゃるなら、私が自分で通報します」
高遠は何かを言いかけたものの、結局は上着の内側から自分の携帯電話を取り出した。一方、義母の雅世は、私たちのやり取りを聞いているうちに怒りを通り越したらしく、ひどく冷めた目で私を見ていた。
「一度だけ忠告します、澪さん。その棺を開ければ、今日の葬儀は二度と取り戻せません。冬真の妻として静かに見送る最後の機会を、自分から捨てることになりますよ」
「棺を開けずに焼けば、冬真がなぜ私へ電話をかけ、なぜ自分の携帯電話を中へ残したのか、確かめる機会を永遠に失います」
「あの電話が冬真だったと、本気で信じているの?」
「信じたいと思っています。でも、お義母様が教えてくださったでしょう。久瀬家の人間は、願望と事実を混同してはいけないと。私が冬真を信じたいことと、棺を調べる必要があることは、別の話です」
結婚して半年ほど過ぎたころ、慈善晩餐会で私が失敗した夜に、義母から浴びせられた言葉だった。その場にふさわしくない若い画家を推薦し、きっと理解してもらえると根拠もなく期待した私へ、彼女は、願望を事実のように語る女に久瀬家の仕事は任せられないと言った。
まさか、その言葉を私自身から返される日が来るとは考えていなかったのだろう。義母は頬を強張らせたが、報道陣のカメラが向いていることを思い出したらしく、それ以上は何も言わなかった。
「記者を外へ出してください。参列者は隣の待合室へ移動させ、氏名と連絡先を確認するまでは帰さないように。出入口と棺の周囲には、誰も近づけないでください」
高遠が広報担当者へ指示を出すと、礼拝堂は急に騒がしくなった。事情を説明しろと詰め寄る記者、予定があるから帰らせろと訴える親族、携帯電話をこちらへ向けたまま動かない参列者を、警備員たちが一人ずつ外へ誘導していく。
その混乱の中で、朔也が私のすぐそばへ来た。
「あなたも事情を聞かれる立場なのですから、ほかの参列者と一緒に外へ出てください」
「俺が消えたら、弟の母親と親友だけを残して棺を開けることになる。それでも構わないなら出ていきますが、あとで、見ていない場所で証拠を入れ替えたと俺が騒いでも、文句は言わないでください」
「あなたは、何を言っても人を不愉快にさせないと気が済まないんですか」
「昔から、丁寧に嫌われる方法がわからないんです」
冗談を言っている顔ではなかったので、私は笑うこともできず、ただ疲れているからなのか、この男は本気でこういう会話しかできないのかと、判断に困った。
朔也は棺へ目を向けたまま、少し声を落とした。
「あなたは、蓋が開いても遺体を見ないほうがいい。電話だけ取り出したら、あとは警察に任せて、部屋を出てください」
「開けろと言ったのは、あなたでしょう」
「身元を確認しろと言ったんです。あなたが焼けた遺体を自分の目に刻めとは言っていない」
「いまさら私を気遣うふりをしないでください。夫が棺にいないと言った次には、夫の声を疑えと言い、それでも足りなくなったら、今度は遺体を見るなと命令する。あなたは私をどうしたいのですか」
「俺の言うことを聞かせたいわけじゃない。ただ、見てしまったものは消せないと言っているんです。俺は一度、焼けた人間の顔を見たことがある。二十年経っても、夢の中では昨日のことみたいに出てくる」
そこで初めて、朔也は棺から私へ視線を移し、怒らせるためではなく、本気で止めようとしていることだけは伝わる目で私を見た。
「あなたは俺を嫌っていればいいし、疑うのも当然です。でも、腹を立てた勢いで、自分を傷つけるような選び方だけはしないでください。あとになって後悔しても、俺は責任を取れない」
「ずいぶん勝手ですね。棺を開けさせるところまでは責任を負わせて、開いたあとの私は知りませんと言うんですか」
「そう聞こえたなら、俺の言い方が悪かった。あなたの代わりに見ることはできるし、見たものを全部説明することもできます。でも、あなたの記憶を引き受けることはできない。それだけです」
不器用という言葉で済ませるには、ずいぶん腹の立つ話し方だった。それなのに、優しい言葉だけを選びながら、私の質問には何一つ答えなかった高遠よりも、今の朔也のほうが、少なくとも自分のできないことを正直に口にしているように思えた。
私は返事を決められないまま、背後で開いた礼拝堂の扉へ目を向けた。
「警察です。棺には触れないで、その場を離れてください」
低く、よく通る女性の声だった。
黒いパンツスーツの上に濃紺のレインコートを羽織った四十代ほどの女性が、制服警官と鑑識員を伴って入ってくる。彼女は記者たちの問いかけをすべて無視し、棺の位置と私たちの顔を順に確認したあと、警察手帳を示した。
「警視庁捜査一課の相良千尋です。久瀬冬真さんの遺体について身元の疑義があり、棺の中から本人の携帯電話と思われる音がしている、という通報を受けました。通報した久瀬朔也さんは、あなたですね」
礼拝堂へ入る前から警察を呼んでいたという事実が意外で、私は問いただすより先に、思わず朔也の顔を見た。
彼は驚いた様子もなく、ポケットから携帯電話を取り出すと、通話履歴の画面を相良へ差し出した。
「礼拝堂へ入る前に通報しました。俺が騒げば、久瀬家は警備員に放り出させて、そのまま火葬すると思っていたので」
「では、棺の中で携帯電話が鳴ることも、あらかじめ知っていたのですか」
「それを知っていたなら、自分で通報した警察が来る前に、こんな人目の多いところで騒いだりしませんよ。俺が疑われるようにできているのは認めますが、仕掛けた人間に褒め言葉を贈る趣味はない」
「あなたに趣味を聞いたつもりはありません。これから一人ずつ事情をうかがいますので、許可なく帰らないでください」
相良は冷たく言い切ると、次に私へ向き直った。
「奥様には酷なお願いになりますが、棺を開けます。ご遺体の状態によっては、この場を離れていただきますが、よろしいですか」
「携帯電話がどこに、どのような状態で入っていたのか、自分で確認させてください。触りませんし、鑑識の邪魔もしません」
「ご家族が強がった結果、その場で倒れることは珍しくありません。倒れないと約束できますか」
「そんな約束はできません。でも、倒れたら運び出してください。あとで誰かの説明だけを聞かされ、また信じるかどうかを決めさせられるより、自分で見て倒れるほうを選びます」
相良はしばらく私の顔を見つめ、それから、説得しても無駄だと判断したらしく、鑑識員へ合図を送った。
白薔薇と紫陽花が一輪ずつ取り除かれ、白木の蓋を留めていた金具が外されていく。その音は決して大きくなかったのに、礼拝堂から人の気配が消えたせいか、金属が擦れるたびに、胸の奥まで響いた。
蓋がゆっくりと持ち上がった瞬間、薬品と花と、焼けた布のような匂いが混じって流れてきた。
足元から震えが上がってくるのを感じながらも、ここまで来て視線だけを逃がせば、また誰かが選んだ説明を信じるしかなくなると思い、私は棺の前から動かなかった。
棺の中の人は、胸元まで白い布に覆われ、損傷の激しい顔にも薄い覆いがかけられていた。見えるのは右手の一部だけで、その薬指には、私が三年前の結婚式ではめた指輪が残っている。冬真は仕事で考え込むと、親指で指輪を何度も回す癖があり、銀色の表面には、私しか知らない細かな傷がついていた。
焼けて色を失った指輪の表面にも、記憶に残っているものと同じ傷があるように見えたが、そう思いたくない気持ちが、目に映るものまで歪めている可能性を否定できなかった。
「冬真なの……? 本当に、そこにいるのはあなたなの?」
呼びかけても返事がないことなど、わかっていた。それでも、喉からこぼれた名前を止めることはできなかった。
隣にいた朔也が、息を呑む音がした。弟ではないと断言した男が、勝ち誇るどころか、棺の縁へ置いた指を白くなるほど強く握りしめているのを見て、私は、この人も本当は、自分の言葉が間違いであってほしかったのかもしれないと考えた。
「携帯電話を確認しました。ご遺体の左脇、内張りと布の間に挟まれています」
鑑識員が長いピンセットを差し入れ、黒い携帯電話を持ち上げた。画面はまだ明るく、私が録音した着信音を流しながら、発信者の名前を表示している。
そこに書かれていたのは、私の名前だった。
「私は、かけていません。携帯電話は、ここにあります」
自分の端末を見せると、相良は頷き、二台を別々の証拠袋へ入れるよう指示した。夫の携帯電話から流れていた私の声は、袋の口が閉じられる直前に途切れ、礼拝堂には、窓を打つ雨音だけが残った。
「納棺の際、この端末が入っていることを確認した方はいますか」
相良の問いに、葬儀責任者が慌てて書類の束を開いた。
「故人の愛用品として、ご家族からお預かりした品は、腕時計、眼鏡、万年筆、それから結婚式のお写真です。携帯電話は原則として火葬できませんので、お断りするはずなのですが……いえ、待ってください。こちらの追加納棺品確認書には、携帯電話一台と記載されています」
「誰が追加を依頼したことになっていますか」
責任者の顔から、見る見る血の気が引いていった。
「久瀬、澪様です。今朝八時四十分にお預かりし、ご本人の署名もいただいた記録になっています」
差し出された用紙には、確かに私の名前があった。細く右上がりになる癖も、最後の払いを長く伸ばすところも、初めて見る人なら疑わないほど似ている。
「私ではありません。今朝、ここへ到着したのは九時十五分ですし、この書類にも署名していません」
高遠が用紙をのぞき込み、眉を寄せた。
「しかし、澪さんの署名に見えます。誰かに署名を任せたことはありませんか。秘書や使用人が、あなたの指示を受けて――」
「私は自分の名前を書くとき、澪という字の最後をここまで右へ払いません。父から、名前の最後くらいはまっすぐ立ちなさいと言われて育ったので、最後の線だけは、意識して縦へ下ろします。これは私の字をよく見た人が、形だけを真似て書いたものです」
相良は用紙を光へ透かし、証拠袋へ入れるよう鑑識員へ渡した。
「今朝八時四十分ごろ、この棺へ近づけた人間を確認します。防犯映像と職員の配置記録を用意してください。それから久瀬朔也さん、あなたが持ってきた検案記録は、どこで手に入れたものですか」
「今日の午前三時十二分、俺が借りている事務所の郵便受けに入っていました。差出人の名前はなく、封筒には検案記録の写しと、『午前十一時に火葬される。弟の左腕を思い出せ』と印刷された紙が一枚入っていた」
「それを見て、誰にも相談せず葬儀へ乗り込んだ?」
「相談すれば、久瀬家に話が伝わって封筒ごと消える可能性があった。だから封筒は弁護士へ預け、警察へ匿名通報したうえで、ここへ来たんです」
「ずいぶん用心深いわりに、ご自分は目立つ正面玄関から入ったんですね」
「裏口から忍び込めば、もっと犯人らしく見えたでしょう。俺は家族に嫌われていますが、招待状を持って弟の葬儀へ来ることまで犯罪にされた覚えはない」
相良は呆れたように息を吐いたが、朔也から目をそらさなかった。
「率直に聞きます。あなたは弟を憎んでいましたか」
義母が口を挟もうとしたものの、朔也は片手を上げて止めた。
「憎んでいましたよ。俺が追放されたとき、冬真は何が起きていたのか知りながら、母親と取締役会の前で一言も話さなかった。あいつが真実を言えば、俺だけが罪をかぶることはなかったし、後継者の椅子もあいつには回ってこなかった」
「朔也、冬真の棺の前で、よくもそんな――」
「死んだから立派な弟だったことにするつもりはありません。生きているうちに言えなかったことを、棺の前で綺麗な思い出に作り替えるほうが、よほど失礼でしょう」
朔也は義母から私へ視線を移した。
「あいつが会社を失い、俺に頭を下げるところを想像した夜なら、何度もあります。自分が間違っていたと認めさせたかったし、同じだけ苦しめばいいと思っていた。でも、殺したいと思ったことはない。死んだ人間は謝らないし、言い訳もしないし、こちらが許すかどうかを選ぶことすらできない。こんな終わり方では、俺が八年間生き延びた意味まで、あいつに持ち逃げされたようなものです」
弟への愛情を飾る言葉ではなかった。むしろ、憎しみと未練を分けることもできないまま抱えてきた、ひどく身勝手な告白だったが、それだけに、私は嘘だと切り捨てることができなかった。
「あなたが冬真を殺そうとしたと、さっきの電話では言っていました」
「でしょうね。俺をここへ呼び寄せた人間は、その場であなたにも俺を疑わせたかった。検案記録を俺へ送り、冬真の声をあなたへ聞かせたのが同じ人物なら、筋は通ります」
「自分に都合よく考えているだけかもしれません」
「もちろんです。だから、あなたが俺を信じる必要はない。ただし、俺を疑うなら、同じくらい冬真の声も疑ってください。どちらか片方だけを信じるのが、いちばん危ない」
言い返そうとしたとき、証拠袋へ入れられる直前だった私の携帯電話が、相良の手の中で短く震えた。
「新しいメッセージです。発信者名は、久瀬冬真」
相良は画面へ触れず、私に見える角度まで傾けた。
送られてきたのは一枚の写真だった。
棺を囲む私と朔也、高遠、義母、そして警察官たちの後ろ姿が、礼拝堂の二階にある小さな聖歌隊席から撮影されている。棺の蓋はすでに開いており、鑑識員が電話を持ち上げた瞬間まで写っていた。画面に表示された撮影時刻は、わずか十七秒前だった。
写真の下には、短い文章が続いている。
『澪、棺を開けたんだね。それなら次は、兄さんの左の内ポケットを調べて』
自分でも止めることができないほど反射的に、私は朔也が着ている濡れた上着の左胸へ視線を向けた。
雨に濡れた黒い布の左胸には、外側からでは何も見えない。朔也は、私の視線が動いた理由をすぐに察したらしく、両手を身体から離した。
「何を調べろと書いてあったんですか」
「あなたの、左の内ポケットです」
「なら、俺が触る前に警察に調べてもらってください。自分で取り出した瞬間、俺が持ってきたことにされる」
相良が別の警察官へ合図を出し、朔也の身体を壁へ向けさせた。彼は抵抗せず、ポケットの中身を一つずつ机へ並べられていく。財布、名刺入れ、鍵、折り畳まれた招待状、濡れたハンカチ。その次に警察官が取り出したのは、透明な液体の入った小さなガラス瓶だった。
「左の内ポケットから出てきたこの瓶は、もともとあなたが持っていた物ですか」
「違いますし、少なくとも、俺が自分の意思で持ち込んだ物ではありません」
「瓶には『AR‐7』と印字されています。何の薬品か、ご存じですか」
朔也が答えるより先に、義母が、かすかな声を漏らした。
「どうして、いまになってそれがここにあるの……」
高遠がすぐに義母の前へ立ったが、私は見逃さなかった。普段は感情を顔へ出さない雅世が、その文字を見た瞬間、冬真の携帯電話が鳴ったとき以上に怯えたことを。
「お義母様は、この薬をご存じなのですか」
「知らないわ。見たこともありません」
「いま、どうしてそれが、とおっしゃいましたよね」
「聞き間違いです。こんな状況で、私が何を口にしたかまで問い詰めるつもり?」
朔也はガラス瓶を見つめたまま、乾いた笑いを一度だけこぼした。
「AR‐7は、久瀬製薬が八年前に開発を中止した薬です。正式名称は社外秘だったから、警察のデータベースを調べても、すぐには出てこないでしょうね」
「なぜ、追放されたあなたが知っているんですか」と相良が尋ねた。
「俺が久瀬家を追放された理由が、その薬だからです」
その薬が八年前の追放と結びついた瞬間、礼拝堂にいる全員が、冬真の死だけでは終わらない事件へ巻き込まれたことを理解し、張り詰めていた空気が再び重く変わった。
朔也を連れ出そうと警察官が近づく一方で、相良は、写真が撮影された二階の聖歌隊席へ別の警察官を走らせた。けれど、その階段から下りてきた制服警官は、首を横に振った。
「誰もいません。外へ通じる扉は内側から施錠されていますし、窓も開いていません。防犯カメラを確認します」
私の携帯電話が、もう一度震えた。
今度のメッセージにも、冬真の名前が表示されている。
『そこにいる全員の中で、誰がいちばん上手に悲しんでいると思う?』
その一文を読んだあと、続けて届いた写真を見た私は、息をすることさえ忘れた。
それは棺を見下ろす写真ではなく、私の顔を正面から、大きく写した写真だった。撮影時刻は、わずか三秒前。けれど、私の正面にいるのは相良と鑑識員だけで、誰一人、携帯電話もカメラも構えていない。
写真の中の私は、夫かもしれない遺体を前にしながら泣くこともできず、怯えた目で周囲を見回していた。
そして、その写真の下には、夫の声を借りた誰かから、もう一つだけ文章が届いていた。
『次の棺には、君が入るんだよ、澪』
死んだ夫を装っている人間は、遠い場所から私たちを見ているのではない。
冬真を殺したかもしれない誰かは、今、この礼拝堂の中にいる。
第61話 亡夫は、私と七海に自分の子どもを一人ずつ産ませるつもりでした 冬真が残した映像記録は、私と七海の生体認証を同時に確認しなければ開かないよう設定されていたが、その条件へ従うこと自体が、私たちを彼の決めた「二人の母親」として認める行為に思えたため、私はすぐには再生へ同意できなかった。 集中治療室の空調は身体へ障るほど冷たくないはずなのに、輸血を受けたあとの皮膚には、薄い毛布を重ねても消えない寒さが残っていた。腹部の傷は呼吸のたびに引きつれ、少し身じろぎするだけで身体の奥から鈍い痛みが広がったが、私は鎮痛薬を追加して眠くなることを嫌い、七海とつながった画面を見続けた。「この映像を開けば、冬真が私たちを二人の母親と呼んだ前提へ乗ることになります。七海さんは、それでも見たいのですか」『見たいです。ただ、見たから母親になるとも、冬真さんの説明を受け入れるとも約束しません。私は、Cについて知らないまま八年を過ごしました。今度も誰かが決めた呼び名を嫌うためだけに、手掛かりまで拒むことはしたくありません』「冬真の言葉を聞けば、Cを産まなければならないと思うかもしれません。死んだ人の頼みは、生きている人の命令より断りにくいですから」『澪さんも、冬真さんの映像を見れば、娘さんへ、亡くなった父親の意思を守らなければならないと思うかもしれません。それなら、どちらか一人が見るより、二人とも聞いて、その場で互いに疑ったほうがましではありませんか』「互いに疑うことを、協力の条件として出す人は珍しいですね」『信じ合いましょうと言われるより、澪さんも安心するでしょう』「否定できないところが腹立たしいです」 七海は、画面の向こうでわずかに口元を緩めた。親しみを感じたわけではない。ただ、私たちは相手へ好かれるための言葉を選ぶ段階を、最初から飛ばしてしまったらしい。 映像を開く前に、芙美は、再生への同意が、第二母登録、Cの移植、娘の監護権に関する同意として転用されないよう、裁判所の立会い記録へ条件を残した。真奈も、映像ファ
第60話 娘を奪おうとした「二人目の母親」も、子どもを人質にされていました 早瀬七海の名で提出された申立書を見たとき、最初に湧いたのは、同意を盗まれた彼女への同情ではなく、娘を奪われるかもしれないという警戒だった。私も朔也も、本人の知らないところで親として登録されたのだから、七海も同じ被害者だと頭では理解できたが、「第二母」という文字を目にした途端、その理解は薄い紙のように破れ、娘のそばへ近づこうとする人間を追い払いたい気持ちが前へ出た。「申立てを取り下げてください。七海さんが書いたものではないとしても、あなたの名義と署名で提出された以上、そのままにはできません」 院内回線の画面に映る七海は、乱れた髪を手櫛で整えようとして途中で諦め、椅子へ深く座り直した。眠りから急に起こされた人の顔には見えたが、申立書の内容を知った驚きだけではなく、これまで見ないふりをしてきた感情まで暴かれた居心地の悪さが滲んでいた。『取り下げます。ただ、私が取り下げると答えれば、澪さんは、私が本当は娘さんを欲しがっていたことまで忘れてくれますか』「忘れられませんし、忘れる必要もないと思います。あなたがどう感じていても、私の娘へ監護権を主張しなければよいのです」『澪さんの娘だということは分かっています。でも、Cと分けられる前には同じ細胞だった子が生まれたと聞いて、何も感じない人間にはなれません。会ってみたいと思いましたし、顔を見れば、自分が失ったと思っている子どもの続きを見つけられるのではないかとも考えました』「それを私へ言えば、正直な人として信じてもらえると思っているのですか」『思っていません。むしろ、言わないほうが澪さんから嫌われずに済むと分かっています。ただ、私は、AURに勝手な意思を作られたと訴えながら、自分に都合の悪い本音だけ隠し、申立書に書かれたことは全部嘘ですと言うのも違う気がします』 七海の言い方は、私へ許しを求めているようでいて、許されやすい被害者を演じることだけは拒んでいた。その頑固さに苛立ちながら、私は、もし彼女が泣いて謝り、娘へ興味などないと言い
第59話 私が意識を失った二十二分間に、夫は娘の父親として登録されていました 手術室の端末が、私の意思能力を失ったと判定したとき、私はまだ意識を保ち、篠崎医師が読み上げる出血量も、麻酔科医が指示する輸血の種類も聞き取れていた。視界の端は暗くなり、口を動かすだけで息が切れたものの、誰が何を話しているか理解でき、自分が生きたいことも、娘をAURの管理へ渡したくないことも分かっていたため、機械から先に、何も判断できない人間として扱われたことへ怒りが湧いた。「私は、まだ話せます。意思能力を失っていません」「分かっています。現在地とお名前、生年月日を確認します」と麻酔科医が答えた。「ここは篠崎先生の病院の手術室で、私は久瀬澪です。生年月日は、今から全部言わなければならないのですか」「記録に残すため必要です。面倒でも答えてください」 私は息を整えながら生年月日を伝え、今日、帝王切開で女児を出産し、胎盤を取り出したあと出血が増えていることまで説明した。麻酔科医は、私が現在の状況と治療の必要性を理解し、意思を表明できると判断したが、端末に表示された第二管理条件は消えず、娘の医療同意権を朔也へ移す手続きだけが進んでいた。「機械の判定より、医師の評価が優先されるのでしょう」と私は尋ねた。「医療上は当然です。澪さんは今も、ご自身の治療について同意できますし、娘さんの治療についても、法的な判断が確定するまでは、先ほどの裁判所命令と緊急治療の原則に従います」と篠崎医師が答えた。「それなら、表示を止めてください」「この端末上の登録を止めても、信託側の記録や別の医療機関へ同じ情報が送られている可能性があります。芙美さんと真奈さんが、裁判所へ緊急停止を申し立てています」「私が出血している間に、娘を連れていかれることはありませんか」「新生児集中治療室の出入口へ警察官と病院警備を置き、搬送指示は全て私が直接確認するよう変更しました。電子上の同意だけで、娘さんを院外へ出すことはさせません」
第58話 子どもを救うためでも、夫の命を治療材料にはさせません 手術室の監視端末に表示された十八分の数字は、私たちが言葉の意味を理解するまで待ってはくれず、十七分三十四秒、十七分三十三秒と、冷静すぎる速さで減り続けていた。子どもの頭と片方の肩はすでに子宮の外へ出ていたが、下半身はまだ私の中にあり、臍帯と胎盤を通じて酸素を受け取っているため、医学的には出生が完了したとはいえない状態だった。それでもAURの装置は、人間が決める出生時刻ではなく、頬へ触れた空気と温度の変化だけで、子どもを胎内から分離された個体と判定していた。「第三細胞提供者との直接循環とは、朔也の血液を、この子へ直接流すという意味ですか」 麻酔で痛みは抑えられていたものの、腹部の奥を押される感覚と、身体の中から何かを引き出され続ける不快感は残っており、私は呼吸を整えなければ、質問の途中で声が震えそうになった。「表示どおりなら、その可能性が高いですが、医学的な安全性を確認しないまま接続はできません」と篠崎医師が答えた。「成人と新生児では循環血液量が違いすぎますし、免疫細胞を含む血液を直接混ぜれば、急性の拒絶反応や血圧変動を起こす危険があります。AURが接続を要求していることと、それが治療として適切であることは別です」「適切ではないなら、しないでください」「ただし、接続信号がなければ、Dの停止を防ぐ因子を投与できない可能性があります。直接つながずに認証だけを成立させる方法を、現在、細胞処理班と確認しています」「あと十七分しかないのに、確認して間に合うのですか」「間に合わせますとは約束できませんが、危険を無視して朔也さんと子どもをつなげば、十八分を待たずに二人とも危険になるかもしれません。時間が短いからこそ、最初に思いついた方法へ飛びつかないでください」 子どもの気道を確保していた新生児科医が、まだ自発呼吸は弱いものの、胎盤からの酸素供給は保たれていると告げた。私は仕切り布の向こうを見ることができず、子どもの顔も、胸が動いているかどうかも分からなかったため、医師たちが数字を読み上げる
第57話 夫か子どもか選べという回収命令に、私はどちらも渡さないと答えました 採血室の自動扉が施錠されたという警報が聞こえた瞬間、私はベッドから起き上がろうとしたが、破水した直後の腹部を強い収縮が貫き、肘で身体を支えることさえできず、篠崎医師と助産師に肩を押さえられた。朔也が閉じ込められた部屋は同じ階にあり、廊下を二度曲がれば届く距離なのに、出産を始めた私の身体には、外国より遠い場所になっていた。「離してください。採血室には、朔也と看護師さんがいるのでしょう。自動採血が続いているなら、止めなければ危険ではありませんか」「警備員と設備担当が向かっていますし、室内の看護師にも、装置を手動停止するよう指示しています。澪さんが行っても扉を開けられるわけではありませんから、今は胎児心拍を確認させてください」「子どもの心臓を守るために採血した人が、そのせいで危険になっているのです。私だけ安全な場所にいて、専門家へ任せてくださいと言われても、何もできない自分が安心できるわけではありません」「安心してくださいとは言っていません。立ち上がれば、臍帯が先に下りたり、出血が増えたりする危険があるから止めています。夫の救出へ向かわないことは、夫を見捨てることと同じではありません」 篠崎医師の声は強かったが、私を叱りつける響きはなく、それでも私は、言われたとおり横になる自分が、朔也より子どもを選んだように思えてならなかった。誰かを守るたび、別の誰かを放置した罪まで背負わされる状況を作ったのはAURであるはずなのに、実際に選ばなければならない場所へ置かれると、怒りは仕組みではなく、自分自身へ向かった。 院内回線は切れていなかったため、岸本が採血室へ呼びかけると、数秒の雑音のあと、朔也の声が返ってきた。『こちらは、まだ大丈夫だ。扉は開かないが、看護師が採血装置の電源を切った。俺の意識もあるから、澪は動かすな』「大丈夫という言葉を信用しないように、さっき看護師さんから言われたばかりでしょう。血圧はいくつですか」『上が九十二、下が五十八だ。採血前よ
第56話 陣痛が始まり、子どもの父親を知ることが救命条件になりました 腹部を締めつけていた痛みがいったん遠のくと、私は、自分の身体へ戻れたような錯覚を覚えたが、六分四十秒後には、先ほどより低い位置から硬さがせり上がり、腰骨の内側を押し広げるような痛みが始まった。呼吸の仕方は教えられていたものの、息を長く吐こうと意識するほど、誰かに呼吸まで命令されているようで腹が立ち、私は、朔也が差し出した手を握りながら、規則正しく息をしろと繰り返す助産師ではなく、何も言わずに痛みが過ぎるのを待っている彼へ、その苛立ちを向けた。「手を握ってほしいとは言いましたが、私が痛がるたびに、そんな顔をしないでください。あなたまで苦しそうにされると、私は、自分の痛みだけでなく、あなたを安心させる仕事までしなければならないような気分になります」「どんな顔をすればいいのか教えてくれれば直すが、たぶん、今の君は、俺が平然としていても腹を立てるだろう」「平然としていれば、他人事だと思って怒るでしょうし、大丈夫だと言われれば、何を根拠に決めるのかと怒ると思います。だから、私へ正しい態度を求めないでください。今は、何をされても面倒に感じる自分まで含めて、放っておいてほしいのです」「分かった。手だけは、このままでいいのか」「それは離さないでください。私が矛盾したことを言っているのは分かっていますが、出産中まで一貫した人間でいる義務はないでしょう」「ない。君が俺を必要としながら嫌っていても、俺は、そのうち都合のいいほうだけを信じないようにする」 痛みが引いてから診察を受けると、子宮頸管は前の検査より明らかに短くなり、子宮口もわずかに開き始めていた。篠崎医師は、AUR‐011‐01‐Dが陣痛に似た信号だけを作っているのではなく、私の身体が実際の分娩過程へ入りつつあると説明し、収縮を弱める薬を使える可能性はあるものの、一般的な早産管理と同じようには考えられないと続けた。「Dの細胞は、胎児の心拍と子宮収縮の両方へ影響している可能性がありますから、陣痛を強く止めようとすると、子宮だけでなく胎