LOGIN私が二度目の命令を口にしても、棺の周りに立つ葬儀社の職員たちは、誰一人として動こうとしなかった。
無理もないのかもしれない。つい先ほどまで、ここで行われていたのは、久瀬グループの次期会長を送り出すための、あまりにも整いすぎた葬儀だった。祭壇を飾る花の種類も、弔辞を読む人間の順番も、報道陣へ公開する映像の長ささえも、久瀬家の広報部と顧問弁護士が細かく決めていたのだろう。そこへ、死者の兄を名乗る追放者が現れ、棺の中から死者の携帯電話が鳴り、挙げ句に喪主が棺を開けろと言い出したのだから、職員たちが、自分たちの判断で触れてよいものなのかと青ざめるのも当然だった。
けれど、今の私には、彼らの立場を思いやって待つだけの余裕がなかった。
「聞こえなかったのなら、もう一度言います。棺を開けて、中で鳴っている携帯電話を取り出してください。私が冬真の妻で、今日の喪主であることに、異論のある方はいませんよね」
年配の葬儀責任者が、助けを求めるように高遠へ目を向けた。
「奥様、棺はまだ完全には閉じておりませんので、物理的には開けられます。ただ、ご遺体の状態を考えますと、ご対面はお控えになったほうがよろしいかと存じますし、納棺後に私どもの判断だけで開けることも――」
「あなた方の判断ではありません。私が責任を取ります」
「澪さん、責任という言葉で片づけられる問題ではないんです」
高遠は声を荒らげず、それでも私と棺の間から退こうとはしなかった。
「中にある携帯電話が冬真さんの物なら、なおさら素手で触れてはいけません。誰が、いつ、どのような目的で入れたのか、今の段階では何もわからないのですから、まず警察へ連絡し、鑑識の到着を待つべきです。あなたが取り乱すのは当然ですが、ここで急いで証拠を壊してしまえば、あとでいちばん後悔するのはあなたですよ」
言われていること自体は正しかった。だからこそ、私は、彼がどうして火葬を止めるという同じ結論を、先ほどまで一度も口にしなかったのかが気になった。
「では、高遠さんから警察へ連絡してください。火葬は中止し、誰もこの礼拝堂から出さないようにお願いします」
「誰も、というのは、参列者全員を疑うという意味ですか」
「夫の携帯電話を棺へ入れた人が、この中にいるかもしれないのでしょう。久瀬家の体面を守るためなら、誰か一人を見逃しても構わないとおっしゃるなら、私が自分で通報します」
高遠は何かを言いかけたものの、結局は上着の内側から自分の携帯電話を取り出した。一方、義母の雅世は、私たちのやり取りを聞いているうちに怒りを通り越したらしく、ひどく冷めた目で私を見ていた。
「一度だけ忠告します、澪さん。その棺を開ければ、今日の葬儀は二度と取り戻せません。冬真の妻として静かに見送る最後の機会を、自分から捨てることになりますよ」
「棺を開けずに焼けば、冬真がなぜ私へ電話をかけ、なぜ自分の携帯電話を中へ残したのか、確かめる機会を永遠に失います」
「あの電話が冬真だったと、本気で信じているの?」
「信じたいと思っています。でも、お義母様が教えてくださったでしょう。久瀬家の人間は、願望と事実を混同してはいけないと。私が冬真を信じたいことと、棺を調べる必要があることは、別の話です」
結婚して半年ほど過ぎたころ、慈善晩餐会で私が失敗した夜に、義母から浴びせられた言葉だった。その場にふさわしくない若い画家を推薦し、きっと理解してもらえると根拠もなく期待した私へ、彼女は、願望を事実のように語る女に久瀬家の仕事は任せられないと言った。
まさか、その言葉を私自身から返される日が来るとは考えていなかったのだろう。義母は頬を強張らせたが、報道陣のカメラが向いていることを思い出したらしく、それ以上は何も言わなかった。
「記者を外へ出してください。参列者は隣の待合室へ移動させ、氏名と連絡先を確認するまでは帰さないように。出入口と棺の周囲には、誰も近づけないでください」
高遠が広報担当者へ指示を出すと、礼拝堂は急に騒がしくなった。事情を説明しろと詰め寄る記者、予定があるから帰らせろと訴える親族、携帯電話をこちらへ向けたまま動かない参列者を、警備員たちが一人ずつ外へ誘導していく。
その混乱の中で、朔也が私のすぐそばへ来た。
「あなたも事情を聞かれる立場なのですから、ほかの参列者と一緒に外へ出てください」
「俺が消えたら、弟の母親と親友だけを残して棺を開けることになる。それでも構わないなら出ていきますが、あとで、見ていない場所で証拠を入れ替えたと俺が騒いでも、文句は言わないでください」
「あなたは、何を言っても人を不愉快にさせないと気が済まないんですか」
「昔から、丁寧に嫌われる方法がわからないんです」
冗談を言っている顔ではなかったので、私は笑うこともできず、ただ疲れているからなのか、この男は本気でこういう会話しかできないのかと、判断に困った。
朔也は棺へ目を向けたまま、少し声を落とした。
「あなたは、蓋が開いても遺体を見ないほうがいい。電話だけ取り出したら、あとは警察に任せて、部屋を出てください」
「開けろと言ったのは、あなたでしょう」
「身元を確認しろと言ったんです。あなたが焼けた遺体を自分の目に刻めとは言っていない」
「いまさら私を気遣うふりをしないでください。夫が棺にいないと言った次には、夫の声を疑えと言い、それでも足りなくなったら、今度は遺体を見るなと命令する。あなたは私をどうしたいのですか」
「俺の言うことを聞かせたいわけじゃない。ただ、見てしまったものは消せないと言っているんです。俺は一度、焼けた人間の顔を見たことがある。二十年経っても、夢の中では昨日のことみたいに出てくる」
そこで初めて、朔也は棺から私へ視線を移し、怒らせるためではなく、本気で止めようとしていることだけは伝わる目で私を見た。
「あなたは俺を嫌っていればいいし、疑うのも当然です。でも、腹を立てた勢いで、自分を傷つけるような選び方だけはしないでください。あとになって後悔しても、俺は責任を取れない」
「ずいぶん勝手ですね。棺を開けさせるところまでは責任を負わせて、開いたあとの私は知りませんと言うんですか」
「そう聞こえたなら、俺の言い方が悪かった。あなたの代わりに見ることはできるし、見たものを全部説明することもできます。でも、あなたの記憶を引き受けることはできない。それだけです」
不器用という言葉で済ませるには、ずいぶん腹の立つ話し方だった。それなのに、優しい言葉だけを選びながら、私の質問には何一つ答えなかった高遠よりも、今の朔也のほうが、少なくとも自分のできないことを正直に口にしているように思えた。
私は返事を決められないまま、背後で開いた礼拝堂の扉へ目を向けた。
「警察です。棺には触れないで、その場を離れてください」
低く、よく通る女性の声だった。
黒いパンツスーツの上に濃紺のレインコートを羽織った四十代ほどの女性が、制服警官と鑑識員を伴って入ってくる。彼女は記者たちの問いかけをすべて無視し、棺の位置と私たちの顔を順に確認したあと、警察手帳を示した。
「警視庁捜査一課の相良千尋です。久瀬冬真さんの遺体について身元の疑義があり、棺の中から本人の携帯電話と思われる音がしている、という通報を受けました。通報した久瀬朔也さんは、あなたですね」
礼拝堂へ入る前から警察を呼んでいたという事実が意外で、私は問いただすより先に、思わず朔也の顔を見た。
彼は驚いた様子もなく、ポケットから携帯電話を取り出すと、通話履歴の画面を相良へ差し出した。
「礼拝堂へ入る前に通報しました。俺が騒げば、久瀬家は警備員に放り出させて、そのまま火葬すると思っていたので」
「では、棺の中で携帯電話が鳴ることも、あらかじめ知っていたのですか」
「それを知っていたなら、自分で通報した警察が来る前に、こんな人目の多いところで騒いだりしませんよ。俺が疑われるようにできているのは認めますが、仕掛けた人間に褒め言葉を贈る趣味はない」
「あなたに趣味を聞いたつもりはありません。これから一人ずつ事情をうかがいますので、許可なく帰らないでください」
相良は冷たく言い切ると、次に私へ向き直った。
「奥様には酷なお願いになりますが、棺を開けます。ご遺体の状態によっては、この場を離れていただきますが、よろしいですか」
「携帯電話がどこに、どのような状態で入っていたのか、自分で確認させてください。触りませんし、鑑識の邪魔もしません」
「ご家族が強がった結果、その場で倒れることは珍しくありません。倒れないと約束できますか」
「そんな約束はできません。でも、倒れたら運び出してください。あとで誰かの説明だけを聞かされ、また信じるかどうかを決めさせられるより、自分で見て倒れるほうを選びます」
相良はしばらく私の顔を見つめ、それから、説得しても無駄だと判断したらしく、鑑識員へ合図を送った。
白薔薇と紫陽花が一輪ずつ取り除かれ、白木の蓋を留めていた金具が外されていく。その音は決して大きくなかったのに、礼拝堂から人の気配が消えたせいか、金属が擦れるたびに、胸の奥まで響いた。
蓋がゆっくりと持ち上がった瞬間、薬品と花と、焼けた布のような匂いが混じって流れてきた。
足元から震えが上がってくるのを感じながらも、ここまで来て視線だけを逃がせば、また誰かが選んだ説明を信じるしかなくなると思い、私は棺の前から動かなかった。
棺の中の人は、胸元まで白い布に覆われ、損傷の激しい顔にも薄い覆いがかけられていた。見えるのは右手の一部だけで、その薬指には、私が三年前の結婚式ではめた指輪が残っている。冬真は仕事で考え込むと、親指で指輪を何度も回す癖があり、銀色の表面には、私しか知らない細かな傷がついていた。
焼けて色を失った指輪の表面にも、記憶に残っているものと同じ傷があるように見えたが、そう思いたくない気持ちが、目に映るものまで歪めている可能性を否定できなかった。
「冬真なの……? 本当に、そこにいるのはあなたなの?」
呼びかけても返事がないことなど、わかっていた。それでも、喉からこぼれた名前を止めることはできなかった。
隣にいた朔也が、息を呑む音がした。弟ではないと断言した男が、勝ち誇るどころか、棺の縁へ置いた指を白くなるほど強く握りしめているのを見て、私は、この人も本当は、自分の言葉が間違いであってほしかったのかもしれないと考えた。
「携帯電話を確認しました。ご遺体の左脇、内張りと布の間に挟まれています」
鑑識員が長いピンセットを差し入れ、黒い携帯電話を持ち上げた。画面はまだ明るく、私が録音した着信音を流しながら、発信者の名前を表示している。
そこに書かれていたのは、私の名前だった。
「私は、かけていません。携帯電話は、ここにあります」
自分の端末を見せると、相良は頷き、二台を別々の証拠袋へ入れるよう指示した。夫の携帯電話から流れていた私の声は、袋の口が閉じられる直前に途切れ、礼拝堂には、窓を打つ雨音だけが残った。
「納棺の際、この端末が入っていることを確認した方はいますか」
相良の問いに、葬儀責任者が慌てて書類の束を開いた。
「故人の愛用品として、ご家族からお預かりした品は、腕時計、眼鏡、万年筆、それから結婚式のお写真です。携帯電話は原則として火葬できませんので、お断りするはずなのですが……いえ、待ってください。こちらの追加納棺品確認書には、携帯電話一台と記載されています」
「誰が追加を依頼したことになっていますか」
責任者の顔から、見る見る血の気が引いていった。
「久瀬、澪様です。今朝八時四十分にお預かりし、ご本人の署名もいただいた記録になっています」
差し出された用紙には、確かに私の名前があった。細く右上がりになる癖も、最後の払いを長く伸ばすところも、初めて見る人なら疑わないほど似ている。
「私ではありません。今朝、ここへ到着したのは九時十五分ですし、この書類にも署名していません」
高遠が用紙をのぞき込み、眉を寄せた。
「しかし、澪さんの署名に見えます。誰かに署名を任せたことはありませんか。秘書や使用人が、あなたの指示を受けて――」
「私は自分の名前を書くとき、澪という字の最後をここまで右へ払いません。父から、名前の最後くらいはまっすぐ立ちなさいと言われて育ったので、最後の線だけは、意識して縦へ下ろします。これは私の字をよく見た人が、形だけを真似て書いたものです」
相良は用紙を光へ透かし、証拠袋へ入れるよう鑑識員へ渡した。
「今朝八時四十分ごろ、この棺へ近づけた人間を確認します。防犯映像と職員の配置記録を用意してください。それから久瀬朔也さん、あなたが持ってきた検案記録は、どこで手に入れたものですか」
「今日の午前三時十二分、俺が借りている事務所の郵便受けに入っていました。差出人の名前はなく、封筒には検案記録の写しと、『午前十一時に火葬される。弟の左腕を思い出せ』と印刷された紙が一枚入っていた」
「それを見て、誰にも相談せず葬儀へ乗り込んだ?」
「相談すれば、久瀬家に話が伝わって封筒ごと消える可能性があった。だから封筒は弁護士へ預け、警察へ匿名通報したうえで、ここへ来たんです」
「ずいぶん用心深いわりに、ご自分は目立つ正面玄関から入ったんですね」
「裏口から忍び込めば、もっと犯人らしく見えたでしょう。俺は家族に嫌われていますが、招待状を持って弟の葬儀へ来ることまで犯罪にされた覚えはない」
相良は呆れたように息を吐いたが、朔也から目をそらさなかった。
「率直に聞きます。あなたは弟を憎んでいましたか」
義母が口を挟もうとしたものの、朔也は片手を上げて止めた。
「憎んでいましたよ。俺が追放されたとき、冬真は何が起きていたのか知りながら、母親と取締役会の前で一言も話さなかった。あいつが真実を言えば、俺だけが罪をかぶることはなかったし、後継者の椅子もあいつには回ってこなかった」
「朔也、冬真の棺の前で、よくもそんな――」
「死んだから立派な弟だったことにするつもりはありません。生きているうちに言えなかったことを、棺の前で綺麗な思い出に作り替えるほうが、よほど失礼でしょう」
朔也は義母から私へ視線を移した。
「あいつが会社を失い、俺に頭を下げるところを想像した夜なら、何度もあります。自分が間違っていたと認めさせたかったし、同じだけ苦しめばいいと思っていた。でも、殺したいと思ったことはない。死んだ人間は謝らないし、言い訳もしないし、こちらが許すかどうかを選ぶことすらできない。こんな終わり方では、俺が八年間生き延びた意味まで、あいつに持ち逃げされたようなものです」
弟への愛情を飾る言葉ではなかった。むしろ、憎しみと未練を分けることもできないまま抱えてきた、ひどく身勝手な告白だったが、それだけに、私は嘘だと切り捨てることができなかった。
「あなたが冬真を殺そうとしたと、さっきの電話では言っていました」
「でしょうね。俺をここへ呼び寄せた人間は、その場であなたにも俺を疑わせたかった。検案記録を俺へ送り、冬真の声をあなたへ聞かせたのが同じ人物なら、筋は通ります」
「自分に都合よく考えているだけかもしれません」
「もちろんです。だから、あなたが俺を信じる必要はない。ただし、俺を疑うなら、同じくらい冬真の声も疑ってください。どちらか片方だけを信じるのが、いちばん危ない」
言い返そうとしたとき、証拠袋へ入れられる直前だった私の携帯電話が、相良の手の中で短く震えた。
「新しいメッセージです。発信者名は、久瀬冬真」
相良は画面へ触れず、私に見える角度まで傾けた。
送られてきたのは一枚の写真だった。
棺を囲む私と朔也、高遠、義母、そして警察官たちの後ろ姿が、礼拝堂の二階にある小さな聖歌隊席から撮影されている。棺の蓋はすでに開いており、鑑識員が電話を持ち上げた瞬間まで写っていた。画面に表示された撮影時刻は、わずか十七秒前だった。
写真の下には、短い文章が続いている。
『澪、棺を開けたんだね。それなら次は、兄さんの左の内ポケットを調べて』
自分でも止めることができないほど反射的に、私は朔也が着ている濡れた上着の左胸へ視線を向けた。
雨に濡れた黒い布の左胸には、外側からでは何も見えない。朔也は、私の視線が動いた理由をすぐに察したらしく、両手を身体から離した。
「何を調べろと書いてあったんですか」
「あなたの、左の内ポケットです」
「なら、俺が触る前に警察に調べてもらってください。自分で取り出した瞬間、俺が持ってきたことにされる」
相良が別の警察官へ合図を出し、朔也の身体を壁へ向けさせた。彼は抵抗せず、ポケットの中身を一つずつ机へ並べられていく。財布、名刺入れ、鍵、折り畳まれた招待状、濡れたハンカチ。その次に警察官が取り出したのは、透明な液体の入った小さなガラス瓶だった。
「左の内ポケットから出てきたこの瓶は、もともとあなたが持っていた物ですか」
「違いますし、少なくとも、俺が自分の意思で持ち込んだ物ではありません」
「瓶には『AR‐7』と印字されています。何の薬品か、ご存じですか」
朔也が答えるより先に、義母が、かすかな声を漏らした。
「どうして、いまになってそれがここにあるの……」
高遠がすぐに義母の前へ立ったが、私は見逃さなかった。普段は感情を顔へ出さない雅世が、その文字を見た瞬間、冬真の携帯電話が鳴ったとき以上に怯えたことを。
「お義母様は、この薬をご存じなのですか」
「知らないわ。見たこともありません」
「いま、どうしてそれが、とおっしゃいましたよね」
「聞き間違いです。こんな状況で、私が何を口にしたかまで問い詰めるつもり?」
朔也はガラス瓶を見つめたまま、乾いた笑いを一度だけこぼした。
「AR‐7は、久瀬製薬が八年前に開発を中止した薬です。正式名称は社外秘だったから、警察のデータベースを調べても、すぐには出てこないでしょうね」
「なぜ、追放されたあなたが知っているんですか」と相良が尋ねた。
「俺が久瀬家を追放された理由が、その薬だからです」
その薬が八年前の追放と結びついた瞬間、礼拝堂にいる全員が、冬真の死だけでは終わらない事件へ巻き込まれたことを理解し、張り詰めていた空気が再び重く変わった。
朔也を連れ出そうと警察官が近づく一方で、相良は、写真が撮影された二階の聖歌隊席へ別の警察官を走らせた。けれど、その階段から下りてきた制服警官は、首を横に振った。
「誰もいません。外へ通じる扉は内側から施錠されていますし、窓も開いていません。防犯カメラを確認します」
私の携帯電話が、もう一度震えた。
今度のメッセージにも、冬真の名前が表示されている。
『そこにいる全員の中で、誰がいちばん上手に悲しんでいると思う?』
その一文を読んだあと、続けて届いた写真を見た私は、息をすることさえ忘れた。
それは棺を見下ろす写真ではなく、私の顔を正面から、大きく写した写真だった。撮影時刻は、わずか三秒前。けれど、私の正面にいるのは相良と鑑識員だけで、誰一人、携帯電話もカメラも構えていない。
写真の中の私は、夫かもしれない遺体を前にしながら泣くこともできず、怯えた目で周囲を見回していた。
そして、その写真の下には、夫の声を借りた誰かから、もう一つだけ文章が届いていた。
『次の棺には、君が入るんだよ、澪』
死んだ夫を装っている人間は、遠い場所から私たちを見ているのではない。
冬真を殺したかもしれない誰かは、今、この礼拝堂の中にいる。
第56話 陣痛が始まり、子どもの父親を知ることが救命条件になりました 腹部を締めつけていた痛みがいったん遠のくと、私は、自分の身体へ戻れたような錯覚を覚えたが、六分四十秒後には、先ほどより低い位置から硬さがせり上がり、腰骨の内側を押し広げるような痛みが始まった。呼吸の仕方は教えられていたものの、息を長く吐こうと意識するほど、誰かに呼吸まで命令されているようで腹が立ち、私は、朔也が差し出した手を握りながら、規則正しく息をしろと繰り返す助産師ではなく、何も言わずに痛みが過ぎるのを待っている彼へ、その苛立ちを向けた。「手を握ってほしいとは言いましたが、私が痛がるたびに、そんな顔をしないでください。あなたまで苦しそうにされると、私は、自分の痛みだけでなく、あなたを安心させる仕事までしなければならないような気分になります」「どんな顔をすればいいのか教えてくれれば直すが、たぶん、今の君は、俺が平然としていても腹を立てるだろう」「平然としていれば、他人事だと思って怒るでしょうし、大丈夫だと言われれば、何を根拠に決めるのかと怒ると思います。だから、私へ正しい態度を求めないでください。今は、何をされても面倒に感じる自分まで含めて、放っておいてほしいのです」「分かった。手だけは、このままでいいのか」「それは離さないでください。私が矛盾したことを言っているのは分かっていますが、出産中まで一貫した人間でいる義務はないでしょう」「ない。君が俺を必要としながら嫌っていても、俺は、そのうち都合のいいほうだけを信じないようにする」 痛みが引いてから診察を受けると、子宮頸管は前の検査より明らかに短くなり、子宮口もわずかに開き始めていた。篠崎医師は、AUR‐011‐01‐Dが陣痛に似た信号だけを作っているのではなく、私の身体が実際の分娩過程へ入りつつあると説明し、収縮を弱める薬を使える可能性はあるものの、一般的な早産管理と同じようには考えられないと続けた。「Dの細胞は、胎児の心拍と子宮収縮の両方へ影響している可能性がありますから、陣痛を強く止めようとすると、子宮だけでなく胎
私が命じたことにされた「出生前回収」の実行予定時刻まで、残された時間は十五分しかなかった。 病室の空気が急に変わり、篠崎医師は胎児心拍と血流の確認を続けながら、看護師へ、通信機能を持つ機器を全て病室の外へ出し、生命維持に必要な装置は院内回線から切り離して独立電源へ切り替えるよう指示した。「胎児へ送られている信号を止められるのですか」「発信源と考えられる端末は警察が停止しましたが、命令が胎児側へすでに記録されているのか、一定時間ごとに信号を受け続けなければ作動しないのか分かりません。まず、新しい信号が届く経路を遮断します」「十五分後に、胎児の身体で何が起きるのですか」「D由来細胞が心拍を止めるのか、子宮収縮を起こす物質を出すのか、それとも医療機器へ別の命令が送られるのか、まだ特定できていません。分からないまま安心させることはできませんが、現在の胎児心拍と胎盤血流に、直ちに分娩が必要な異常はありません」「それなら、予定時刻まで待ち、何が起きるか見るのですか」「待つのではなく、起こり得る変化へ備えます。緊急帝王切開が必要になった場合の手術室と新生児治療チームを確保しますが、研究側の回収手順は使いません。Dの摘出も、子どもの命を守るため医学的に必要だと確認できない限り行いません」 出産の準備を進めれば、研究側が望んだ回収手順へ近づくよ
AUR‐011‐01‐Dと考えられる第四の系統は、別の女性へ移植するために保存された胚ではなく、私が出産したあと、胎児の身体から回収することを前提に作られていた。「回収するとは、どのような処置をするのですか。臍帯血や胎盤を採取する程度ではなく、子どもの身体を切るという意味ですか」「現時点では分かりません。『第一妊娠主体から回収する』という文言だけでは、母体から採取するのか、新生児から採取するのかも、本来なら断定できません」と篠崎医師が答えた。「けれども、培養記録では、第四の系統をAへ組み込んだと書かれているのでしょう」「はい。AUR‐011‐01‐Aへ、D由来の細胞を共培養し、発育の途中で定着させたという記録があります。その記載が事実であれば、Dは現在、胎児のどこかに存在している可能性があります」「どこにあるかは分からないのですか」「記録には、回収部位を示す符号が使われていますが、変換表がありません。通常の超音波検査で見える大きさの組織なのか、血液や骨髄へ混ざる細胞なのかも確認できていません」「見つけるためには、また胎児を調べる必要があるのですね」「はい。ただし、新しい刺激を与えず、これまでの超音波画像と血流記録を見直すことから始められます。追加検査が必要になった場合は、目的、危険、分かる範囲を説明し、改めて澪さんへ同意を
AUR‐007と呼ばれる女性が入院している周産期医療センターは、久瀬製薬から独立しているという理由で、私の新しい医療チームを派遣した施設だった。 その事実を知らされた新しい責任者の篠崎医師は、驚きを隠すための表情を作らなかった。彼女は、AUR‐007という研究番号を見たことはないと答えたものの、追跡不能者の入院記録に含まれる年齢、既往歴、転院時期を確認すると、思い当たる患者がいることを認めた。「氏名や現在の病状については、本人の同意がなければお話しできません。ただ、私が所属するセンターへ、久瀬製薬の旧産科病院から転院した女性がいることは事実です」「先生は、その人が過去に胚移植を受けていた可能性を知らなかったのですか」「知りませんでした。転院時の紹介状には、反復する子宮出血と免疫異常の経過観察が必要な患者であり、過去に妊娠反応が出たものの、初期流産した可能性があると記載されていました。胚由来組織を子宮へ移植したことも、子宮外の装置へ移したことも書かれていません」「それなら、先生のセンターも、久瀬製薬に騙されていた被害者だと考えるのですか」「現時点で、そう決めるつもりはありません。引き継ぎ情報が偽られていた可能性はありますが、私たちの側が、患者本人から過去の処置について十分に聞かず、紹介状を信用した責任もあります。また、センターが使用している一部の医療装置と患者支援基金に、アウローラ患者継続財団の前身となる資金が入っていることも、今、確認が必要です」
私の身体へAUR‐011‐01‐Aを移植する処置について、最終承認を与えた人物として表示された主治医は、画面に映し出された自分の電子署名を見ても、偽造だとは言わなかった。「この署名は、先生のものなのですか」「電子証明書の番号と署名時刻を見る限り、私が当時使用していたものに間違いありません。ただし、私が承認したと認識していた処置と、今、映像に残っている処置は内容が異なります」「また、表示された書類と、実際に使われた書類が違ったという説明ですか」「そう聞こえることは分かりますが、私は、自分に責任がないとは申し上げません。当時、私は中央病院の周産期緊急審査班へ所属しており、旧産科病院系列の診療所から、凍結された自己由来組織を子宮内へ戻す処置について、遠隔承認を求められました」「自己由来組織とは、私自身の細胞という意味ですか」「申請書には、患者本人から過去に採取し、治療用に培養した子宮内膜組織と記載されていました。月経不順と免疫異常によって内膜が損傷しているため、本人の組織を戻し、妊娠可能性と将来の出血リスクを改善する処置だと説明されていました」「胚を移植するとは書かれていなかったのですね」「私が閲覧した画面には書かれていませんでした。しかし、承認時に紐づいていた検体番号がAUR‐011‐01‐Aだったことは、あとから確認できたは
私自身が妊娠を知るより先に、朔也は研究側から私の妊娠を知らされ、その事実を隠したまま結婚を申し込んでいた。 彼から結婚を申し込まれた日のことを、私は何度も思い出していた。冬真を亡くしたばかりで、久瀬家からは遺産と研究資料を渡すよう求められ、誰かの妻や相続人ではない自分として生き直したいと言いながら、実際には、今後の生活を一人で決めることへ怯えていた時期だった。 朔也は、愛しているから結婚してほしいと、きれいな言葉だけを並べたわけではなかった。私を守りたいという自分の欲を認め、冬真の代わりになるつもりはないが、私が一人で久瀬家と争うところを見ていることもできないと話した。その不器用さを、私は信じた。 しかし彼は、そのときすでに、私が妊娠しているという、私自身さえ知らない医療情報を持っていた。「私が妊娠していると知っていたから、結婚を申し込んだのであれば、愛していたから結婚したという説明は、あとから付けたものですか」「あとから付けたものではない。君を愛していたから、妊娠を知り、誰かに利用される前にそばへ行こうとした」「それを、愛情と言えば正当化できると思っていますか。私は、冬真を亡くした直後で、自分でも知らない子どもを妊娠していて、久瀬家から狙われる可能性がある女性だったのでしょう。あなたにとっては、守る理由が全てそろっていたのですね」「否定できない。俺は、君が一人では対処できない状況だと考え、自分が必要だと思った」







